たとえば恋人を持ったことのない人は、恋人という言葉を聞いてどんな顔を思い浮かべるのか。
あるいは幼い頃に母を亡くし、顔を思い出せない人の、心の中の母はどんな顔をしているのか。
マグリットの場合、13歳の頃に母親を亡くしたといわれる。
母は家の近くの川に入って死んだ。数週間後に発見された母の顔は、ぺったりと夜着に覆われていたともいわれる。
真相はわからないが、悲しすぎて母親の顔を思い出したくない、あるいは思い出せなくなったのかもしれない。
シュルレアリスムの画家は深層のイメージを抽出し、表現するといわれる。
マグリットが、人物の顔を隠した絵をよく描いているのは、心の奥底にあるもののせいだともいわれる。
あるいはこの絵は、恋愛そのものの、詩的なイメージの表現なのかもしれない。
恋人たちは、いつも「互いの素顔を覆い隠している」のである。
恋人たちには、それぞれの秘め事があるのかもしれない。
さらに、イメージを固定しない、マネキンであると考えるのも自由だろう。
マグリットが決定的な啓示を受けたといわれる、デ・キリコの絵にもマネキンはしばし登場する。
あるいは遊園地によくある、顔の抜けた看板とでも考えてもみる。
恋人といっしょに顔をはめ込んで写真を撮るやつである。
恋人のイメージは、見る人によって辛くも楽しくもある。
マグリットの布に覆われた「恋人たち」の素顔は、悲しくもあり、嬉しくもあるのかもしれない。
「恋人たち」The Lovers.1928年
ルネ・マグリット Rene Magritte 1898-1967年,ベルギー