2006年07月09日

フェルメールとメーヘレン

謎解きフェルメール

「謎解きフェルメール」小林頼子・朽木ゆり子著(新潮社)では、フェルメールの贋作者として歴史に名を残すハン・ファン・メーヘレンの絵をいくつかみることができる。
それらは、フェルメールに似せた単なる贋作ではないような気がする。
メーヘレンという「作家」の手による、独特の世界観がある。
そうでなければ、オランダ美術史界の重鎮だったアブラハム・プレディウスや、ゲーリングらを欺くことはできなかったと思う。
しかしメーヘレンの絵は、どこか死を感じさせるような無気味なふんいきがある。

フェルメール作品の鑑定は難しいという。
真贋について、研究者のあいだでも、議論の定まらないものがある。
初期のフェルメールは古典的な物語を題材にしている。のちに、市民の生活を描くようになった。
同じフェルメール作品でも、物語画と風俗画では大きな違いがあって、このことも、鑑定を難しいものにしているという。
フェルメール自信の手になる真作と同時代の画家が描いた非真作があり、さらに意図的に作られた贋作が入り乱れているのである。

メーヘレンは「キリストと悔恨の女」という絵を描いた。
これをフェルメール作品であると偽り、ナチス・ドイツの国家元帥で、美術蒐集家でもあったゲーリングを欺いたのである。
メーヘレンは、国家の財産をナチスに売ったとして起訴された。自分の作品であると告白したが、容易には信じてもらえず、法廷で実際に絵を描いてみせたという。

「謎解きフェルメール」ではフェルメールの生涯をたどりながら、全32点の絵を紹介している。それぞれの絵に込められた寓意なども綴られる。
フェルメール独特の、光と構図の秘密とされる「カメラ・オブスキュラ」についての解説もある。「カメラ・オブスキュラ」とは初期の写真機のこと。
フェルメールは、レンズを通して見た光景をもとに描いたのではないかといわれている。
本書では、CGによる構図の分析を行い、「カメラ・オブスキュラ」を実際に使ったのかどうかを検証している。
posted by アートジョーカー at 06:25| Comment(0) | 美術評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月24日

ブリューゲル「ネーデルランドの諺」

b.jpg

諺はたいてい古い時代からあるもので、その奥深さに感心したりして「昔の人は偉かった」となる。
狭い世界だけで使われる隠語(ジャーゴン)や、外来の新しい概念を表す言葉はどんどん増えているが、新しい諺というものは、ほとんど生まれていないような気がする。
それどころか間違って使っていたりする。

「袖ふりあうも多生の縁」
を「多少の縁」と書いてしまうと、本来の仏教的な意味が忘れられるかもしれない。
「覆水盆に返らず」
を「帰らず」とか書いてしまう人も多い。
これだと、覆水という男が盆に故郷に帰ってこなかったので云々と、まるで中国の故事にあるような別の意味を持つ諺のようだ。
もっとも「覆水盆に返らず」も、おそらく出典は中国の故事だとは思うが。

ピーテル・ブリューゲルの「ネーデルランドの諺」は多弁な絵だ。よくしゃべる。それだけに楽しい。中世ヨーロッパの農民の生活の中に、たくさんの言葉が含まれている。

「二兎を追う者は一兎も得ず」は、画面の一番右下で離れたパンを同時に掴もうとして苦労している人。「覆水盆に返らず」は、その左下。「捕らぬ狸の皮算用」は画面中央からやや左よりの、まだ鳥が産んでもいない卵の数を数える男。「一石二鳥」は、中央よりやや上の、はえ叩きで二匹のはえをいっぺんに叩こうとしている人、などなど。

「ネーデルランドの諺」1559年頃
ピーテル・ブリューゲル 1525-1569年、フランドル(フランダース)
Pieter Bruegel the Elder, The Netherlandish Proverbs


posted by アートジョーカー at 16:24| Comment(0) | 美術評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月21日

池田満寿夫、美の値段

版画家の池田満寿夫が「美の値段」(1990年初版・光文社)という本を書いている。
これは、実作者の立場から、美術市場という奇妙な世界のからくりを解き明かしたものだ。
おもしろいのは、日本の美術年鑑に記されている絵の価格で、存命中は「遠慮」もあってか、なかなか下がらなかったものが、作家がなくなると急に下がってしまうことなどあるらしい。また号いくらなどという価格の設定も、ナンセンスこのうえないものだと批判する。

池田満寿夫本人については、版画家の欄の二、三番目ぐらいに載っているが、価格のところは空白になっていたらしい。これは、池田の絵は価格にばらつきが多いため、参考価格としての数字が出せないからということ。
また、世界の美術市場で通用する日本の作家は、北斎や歌麻呂などの「浮世絵師」をのぞくとわずか数人程度で、ほとんどの作家が狭い日本市場だけで売り買いされているというから悲しい。
日本では企業がビルを建てると、慣習として建築を請け負った建設会社がエントランスや社長室に飾る絵を贈るという(現在もそうかはわからない)。このときに購入されるのが、「芸術院会員」の肩書きを持った画家の絵であるという。誰も絵のことなどわからず、「芸術院会員」作で、しかも「風景画」であれば間違いはないということらしい。

一度画商に渡した絵の価格がいくらに跳ね上がろうと、作家には、一円も入ってこない。
ラウシェンバーグの油絵が、ニューヨークのオークションで20万ドルという破格で競り落とされたとき、会場にいた彼は、売り主にその5%を要求したが、けんもほろろに断られたという。ラウシェンバーグ本人は、その絵を手放すとき、900ドルを受け取っただけだったらしい。

目利きの画商は、作家が無名のうちから絵を買い上げ、作家をサポートしつつ、将来の資産を築くという。すぐれた鑑識眼を持つ画商によって世に出た作家も多い。印象派のモネやルノアールをサポートしたデュラン・リュエルや、セザンヌやゴーギャン、ピカソを育てたボラールなども本書で紹介している。ゴッホの絵をすべて買い上げていた(というより、あずかって、とりあえず生活の面倒をみていた)弟のテオも、画商だった。しかしテオは、ゴッホの絵がブレイクする前に、なくなっている。

自身の絵の値段をコントロールしたのが、ピカソであるという。
ピカソは多作の天才で、生涯で作り上げた作品は10万点、油絵だけでも2万点にものぼるといわれる。作品が一気に市場にあふれると、いくらピカソでも価格が暴落する可能性が高い。ピカソは市場に、ある種の飢餓状態をつくって、機が熟したときに絵を出した。ピカソの死後、それまで出ていた作品数とほぼ同じぐらいの大量の作品が倉庫に残されていたという。

ピカソは、どういうのが売れる絵かを把握しつつ、「売る絵」と「創る絵」を描き分けていたようにも思う。
ピカソとゴッホは、国際オークションでの最高落札価格記録を、競いあうように更新し続けている。

日本現代版画・池田満寿夫
posted by アートジョーカー at 13:07| Comment(0) | 美術評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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