
精神の訝しくなった人も、一日中狂っているというわけではないらしい。
幻影に脅かされたり、時に正気に戻ったり、此岸と彼岸を行ったり来たりしているのかもしれない。
天才と狂気の関係については、心理学者の宮城音弥著「天才」に詳しい。
激しい狂気こそが天才を引き起こすという見方もあると思うが、たとえば天才と狂気は一人の人間の中に別々に存在しているとも考えられる。
物事を深く冷静に見つめて発明や発見、あるいは芸術活動を行うのは天才の部分のみではないかということである。
仕事をしているとき、狂気は表出しない。奥深くに眠っている幻影、幻覚のようなものを冷静な天才の目で見つめ、極めて詳細に、密度濃く描いたのがリチャード・ダッドの傑作「妖精の樵の見事な一撃」ではないかとも思う。
ダッドは精神病院の中で、10年かけてこの絵を完成させたといわれる。
20才でロイヤル・アカデミー美術学校に入り、木版画による物語の挿し絵などを手がけたが、25才の頃、中近東への旅に出た。
そこで古代エジプトの神、もしくは悪魔に憑かれたような違和感を覚えたらしい。
いそぎ帰国したが、自身を失い、父親を刺殺したという。
フランスに逃亡するが、そこでも何者かの命令が下り、通りすがりの人間を刺す。
以後、40年以上の人生を精神病棟で暮らしながら、創作を続けたといわれる。
絵の中心よりやや下の方に描かれた、斧を振り上げている後ろ姿の男が妖精の樵で、大きな木の実のようなものを割ろうとしている。その右上の王冠を被った老人は魔法使いの王であるらしい。既存の文学作品ではなく、リチャード・ダッドの精神世界に実在する、得体の知れない国の物語を題材としたのかもしれない。
「妖精の樵の見事な一撃 」 The Fairy Feller's Master-Stroke
リチャード・ダッド Richard Dadd 1817-1886年,イギリス